最近、
「三太郎の日記」という本を読み始めた。ちゃんと理解して読んでいるわけではないが、例えば、『先人の用語はただ俺に都合のよい内容を盛るための容れ物にすぎない』とかいう青臭さに大いに感情移入しつつ、『中毒である。Suchtである。』とかいう文に「ドイツ語使えはいいってモンでもないだろ!」と突っ込みを入れつつ、まあ、適当に読み進めている。
(個人的には、『sick』と言われるとまず
イエモンを連想してしまう。まあ、『Sickness』じゃ『病的な嗜癖』というニュアンスは出ないからダメか。しかし、この『反省も批評も自覚もすべて病である。中毒である。Suchtである』という一節もなかなかいいな。)
この本は、中学に入った当初、父から与えられた物だ。父は「お前も、そろそろこういう本を読むべき年頃だろう」と言っていたが、ついこの前まで給食で「い・た・だ・き・ます!」とか言っていたガキには無理だった。
この「合本 三太郎の日記」、物々しい言葉遣いの割に中身は素直なのだが、いかんせん、文章が堅っ苦しくて、引っかかり、引っかかり読むしかない。これが戦前の“格調ある”文章、というものなのだろうか。『古語は、時間という空間で隔てられた外国語』とはよく言ったものだ。以前「大江健三郎の文章は僕にとって古典だ」と言って笑われたことがあるが、この日記、書かれてから100年も経っていないのに、もう“言葉の壁”を感じてしまう。
100年くらいだったらまだいいが、日本人の心などと言わたりする平安文学に至ってはもうお手上げだ。悲しいかな、同じ外国語なら紫式部よりも James Joyce の方がまだずっと分かる。千年という時空の壁は大きい。いや、貧しい農家の子孫である僕には、良家の子女らが紡いだ文章は元来、遠い存在なのかもしれない。
しかし、この「三太郎の日記」、
Amazonですら売ってないのには驚いた。もちろん、
紀伊国屋や
ジュンク堂にも無い。ネット上で新刊が手に入らないだけで、古本屋か何処かにはまだ在庫があるだろうが、色あせた表紙に書いてある『永遠の 青春の書
!』というコピーが、今、僕の手の中で、居心地悪そうにしている。
確かウチの母は「村上春樹の小説は“青春”の喪失を詠っている」とか何とか言っていた。“青春”という言葉が何を指すかは分からないが、かつて、「大人」と「子ども」の間に存在したらしい“青春時代”というものが、経済的理由か何かで、ハルキ世代の人間にはもう無くなっていた、のだそうだ。そんなハルキ本を片手に産み落とされ、育てられた僕の世代というのは、いったい、どんな時代なのかと思う。